週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

菱田春草の名作『落葉』と代々木の林

 晩年のベートーベンはほとんど聴力を失いながら不滅の傑作、交響曲第9番「合唱」を完成している。画家の場合にも、弱まる視力と戦いながら描き続けることは至難の業だろう。

 明治の日本画家、菱田春草は、師の岡倉天心に殉じて横山大観らと東京美術学校(現・東京芸術大学)の教職を棄てて貧窮のなかで画業に励んだ。天心の別荘があった茨城県五浦で大観、春草、下村観山、木村武山の4人が学生のように画布を並べて制作を続けている写真は今も残っていて、彼らの精進ぶりを伝えている。

 しかし、過労や不摂生が崇って春草の視力は急速に衰えた。信州飯田藩の武士の家に生まれた春草は温和な風貌の反面、強情でもあった。「五浦にいては治療ができない」と大観らに説得され、東京で診断を受けると重度の網膜炎とわかった。

 やむなく春草は家族とともに五浦を引き揚げ、妹がいた東京西郊の代々木に転居した。精密診断では慢性腎炎も併発しており、医師から飲酒だけでなく画作も固く禁じられてしまった。明治41年、35歳のときである。

 「当時代々木一帯は人家もまばらで、いたるところ雑木林やすすきの原があり、武蔵野のおもかげが十分に残っておりまして、朝は特に爽快だったので、練兵場からただ今明治神宮神域になっております当時の御料地の辺まで、散歩に出かけるのが、ほとんど毎朝の例でした」

 当時7歳だった春草の長男春夫の思い出である。体力もやや回復して、春草は自宅付近を題材とした『落葉』『黒き猫』などの傑作を描きあげた。明治44年代々木143番地(現・渋谷区代々木3-49)に新居を構えたのも束の間、同年9月、38歳で他界した。

(掲載号:06月10日号)