週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
裁縫からデザインへ文化服装学院
作家の田山花袋は、そそっかしさでも飛び抜けていた。同じ代々木に住んで近所付き合いのあった詩人の服部嘉香がこんな証言を残している。 <夏のある日の夕方、花袋がいやに肩肘張って歩いている。恰好がおかしいので、行き合う人達が目を見張る。花袋は平気で新宿の方へ向かって行く。ある人が気がついて注意したのは、衣紋竹に浴衣を乾かしていたのをそのまま鴨居からはずして着た姿であった> 花袋の家から北へ2、3百メートルも歩き、文化服装学院 (渋谷区代々木3丁目) の横を抜ければ新宿である。
文化服装学院の前身は、大正12年6月にわが国初の洋裁学校として認可された文化裁縫女学校である。創立者の並木伊三郎、遠藤政次郎の2人が青山の裁縫塾ふうの学校から苦労を重ね、校地も転々とした。関東大震災のあと、婦人服改良の声が強まるなかで経営基盤を固め、昭和2年4月、品川から現在地へ移転してきたが、当初は327坪の敷地に木造2階建ての校舎だった。
都心にはモダンガールも出現して、女性の洋装がようやく目立ちはじめたが、既製服というものはまだ出回ってはいなかった。 「洋服は生地を買って洋裁店に頼むか、自分で裁縫するしかなかった」 (鹿島茂 『この人からはじまる』 新潮社)。
文化服装学院の名誉学院長である小池千枝は、昭和8年にこの文化裁縫女学校に入学している。研究熱心が買われて卒業と同時に母校の教壇に立ったが、戦争が彼女から夫も洋裁も奪ってしまった。
昭和22年母校に復帰した小池は、 「洋裁」 を日本女性のための 「デザイン」 に発展させるのに没頭した。その門下から出た高田賢三、コシノジュンコ、松田光弘、金子功らのデザイナーが世界に羽ばたいている。
(掲載号:07月01日号)
