週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

陽と陰 鈴ヶ森 2つの顔

 鈴ヶ森処刑場跡の付近は、昔、江戸湾の海上遥か先に房総半島も望める佳景の地だった。 『江戸名所図会』 にも、遠くに白帆の船が浮かび、近くには海苔を採取するひびが立てられた江戸湾沿いの東海道を大名行列が通行している鈴ヶ森の風景を描いた挿絵が載っている。

 実にのどかな感じのする景色だが、処刑場の近くはこうはいかなかったろう。幕末の1859年(安政6)と1861年(文久元)から翌年へかけての通算2年間、日本に滞在したスイス領事のルドルフ・リンダウ著の 『スイス領事の見た幕末日本』 (新人物往来社、森本英夫訳)に次の一文がある。

 「われわれは草が伸び、中央に仏様の石像のある小さな四角い広場を横切った。半ば野性の12匹ばかりの犬がわれわれが近くのを見て吠えながら逃げていった。それは死刑執行の広場で、さながら脅しのように、江戸のまさに入口に位置していた」

 リンダウは馬に乗り、日本の役人の案内で横浜から江戸に行くため鈴ヶ森を通ったわけである。野犬が群れていたというのも何か不気味で、夜ともなれば、大の男でも通行するのがはばかられたろう。今、刑場跡から旧東海道を北に行くと立会川 (浜川) に架かる浜川橋があり、別名を 「涙橋」 という。鈴ヶ森刑場に護送される罪人の肉親がこの橋まで見送って涙で別れるので、そう呼ばれるようになったという。

 このように鈴ヶ森には暗い陰もあるが、それは刑場があったからで、地名のせいではない。その名前の起こりは、昭和39年から南大井となった、刑場跡のある元の大井鈴ヶ森町地区よりもっと南の大田区大森北の神社の社宝に由来しているようである。これについては、改めて紹介する。

(掲載号:07月08日号)