週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
一変した 御殿山と 原美術館
江戸時代、春は桜、秋は紅葉の名所だった品川の御殿山の風光は、お台場建設のためにここの土が堀取られたのをきっかけに失われだした。嘉永6年 (1853) のペリーの黒船来航は、江戸の名所にも大きな影響を及ぼしたといえる。
明治の代表的な月刊誌 『風俗画報』 の主宰者で、執筆者だった山下重民の 『風俗画報・山下重民文集』 (山下重一編、青蛙房) に 「東京の今昔」 という項があり、御殿山が取り上げられている。この項は大正2年3月から翌年3月にかけて同誌に連載されたもので御殿山はその最後になる。
彼は御殿山の歴史や華麗な景観を詳述した後、お台場建設で 「山の前面は惣ちにさん削せられ、光景は数旬の間に一変せり」 と書いている。さらに明治5年の鉄道開通がこれに拍車を掛けたとしている。 「5年京浜間の鉄道を創設するにあたり、山の東部を南北に横断して、さらに光景は一変し、20年以後山上家屋を建設するに至りて、この名所は遂に全滅せり」
この後、彼は当時の様子を記し、現在の品川女学院西方の陸橋から西望した光景を 「左は益田邸、右は原邸にて、総て緑樹を似て包擁せられ、原邸はその塀に沿うて桜樹を列植し、昔の名残を留め」 と記述している。
益田は三井財閥の実業家益田孝、原は日本の銀行制度創設に尽力した原六郎のことである。このうち原邸は、当時の建物ではないが、現代美術専門の原美術館としてミャンマー大使館近くの北品川4ー7ー25に残っている。
昭和13年、邸宅として建てられた洋館は旧日劇や東京国立博物館などを手掛けた渡辺仁の設計で、昭和初期の建築物として貴重なものである。美術品だけではなく、建物や庭も鑑賞の価値がある。月曜日は休館。
明治の代表的な月刊誌 『風俗画報』 の主宰者で、執筆者だった山下重民の 『風俗画報・山下重民文集』 (山下重一編、青蛙房) に 「東京の今昔」 という項があり、御殿山が取り上げられている。この項は大正2年3月から翌年3月にかけて同誌に連載されたもので御殿山はその最後になる。
彼は御殿山の歴史や華麗な景観を詳述した後、お台場建設で 「山の前面は惣ちにさん削せられ、光景は数旬の間に一変せり」 と書いている。さらに明治5年の鉄道開通がこれに拍車を掛けたとしている。 「5年京浜間の鉄道を創設するにあたり、山の東部を南北に横断して、さらに光景は一変し、20年以後山上家屋を建設するに至りて、この名所は遂に全滅せり」
この後、彼は当時の様子を記し、現在の品川女学院西方の陸橋から西望した光景を 「左は益田邸、右は原邸にて、総て緑樹を似て包擁せられ、原邸はその塀に沿うて桜樹を列植し、昔の名残を留め」 と記述している。
益田は三井財閥の実業家益田孝、原は日本の銀行制度創設に尽力した原六郎のことである。このうち原邸は、当時の建物ではないが、現代美術専門の原美術館としてミャンマー大使館近くの北品川4ー7ー25に残っている。
昭和13年、邸宅として建てられた洋館は旧日劇や東京国立博物館などを手掛けた渡辺仁の設計で、昭和初期の建築物として貴重なものである。美術品だけではなく、建物や庭も鑑賞の価値がある。月曜日は休館。
(掲載号:09月30日号)
