週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

松濤は 明治の 銘茶園

 渋谷がお茶の名産地だったといっても百年前のこと。背景には幕末の大変動がある。大名屋敷や幕臣の邸地が明治新政府に返上されたため、江戸にぽっかり約三百万坪におよぶ空閑地が生まれた。諸国の大名や家臣は国元に帰郷して、空き家や空き地がたちまち荒れた。

 新政府は首都を京都から東京に移すことを決断した。その要因は、江戸の空閑地利用にあった。新政府の役所を江戸周辺に配置したが、荒廃した空き地対策に苦慮した。佐賀藩出身の東京府知事 (兼開懇掛) 大木喬任は、明治2年、桑と茶の栽培を奨励する布告を出した。素人でもなんとか生産できそうだし、絹と茶が日本の輸出品の目玉商品という時代だった。

 ところが明治6年の東京府調査によると、当初百十万坪あった桑茶園が百二万坪に減少している。失業した武士が取り組んで失敗した例も多かった。渋谷周辺では神道無念流の剣客として有名な斉藤弥九郎の奮戦が目立つ。一時新政府に出仕した弥九郎は、代々木の下屋敷に山岡鉄舟らと協力して宇治の茶を移植し、 「代々木は茶処」 の名を売るほどになったという。

 佐賀藩主の鍋島家は、明治5年、上渋谷村にあった紀州徳川家の下屋敷の払い下げを受け、松濤園と名づけて積極的に茶園の経営を始めた。こちらは狭山茶の系統で、松濤の名は茶の湯のたぎる音を松風にたとえた雅語である。ここで生産された茶は東京人に愛好され、渋谷の銘茶として知られた。

 しかし、東海道線の全通で宇治茶が直接移入されたり、近郊が急速に都市化されたりで、渋谷茶は衰退した。松濤は優雅な町名として残った。

 渋谷区立鍋島松濤公園は、紀州徳川邸時代の園池の姿を止めており、鍋島家が昭和7年に寄付した。

(掲載号:10月14日号)