週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

二人の首相が 住んでいた 渋谷・南平台

 地名を人の代名詞にすることは珍しくない。政治の世界でも目白といえば田中角栄元首相を指した。昭和49年10月、田中金脈問題で政界が揺れ、副総理の三木武夫、蔵相の福田赳夫があいついで辞任したため、田中内閣は退陣に追い込まれた。

 <明けて12日朝、三木武夫はもう一度、福田に電話をかけた。 「これから目白 (田中邸) に出かける」 「あとに続くよ」 と、福田は答えた。>

 これは戸川猪佐武者著 『小説吉田学校』 の 「南平台の夜」 のひとこま。三木邸が南平台町 (渋谷区) にあるので、やはり三木を指している。

 11月26日に田中が辞意表明をしたあと、後継首班の調整を委ねられた椎名悦三郎・自民党副総裁は周到な根回しを続け、12月1日、 「新総裁は清廉なることはもちろん、党の体質改善、近代化に取り組む人でなければなりません」 という理由で三木武夫を推挙した。椎名の巧妙なリークで三木は前夜からこの椎名裁定をキャッチしていたが 「青天の霹靂」 と感激してみせた。政界には名優が多い。 <三木の演説は、まず第一級である。 “社会” “会社” などを 「シャクワイ」 「クワイシャ」 と発音する徳島訛か、三木一流の発音か、それが印象的である>

 やはり 『小説吉田学校』 の一節だが、持ち前の才気と弁舌が認められて財界の雄、森矗昶の次女睦子と結婚することになったという。無分別な政治資金集めの必要がなかったためか、 「クーリン三木」 の名が通っていた。

 南平台の地名は、中豊沢村時代の小字の一つに平代があり、明治44年に渋谷町が誕生したとき南平台に変化したらしい。岸信介・元首相邸もここで、今も閑静な住宅街の面影が残る。

(掲載号:12月02日号)