週刊誌コラム

週刊文春「立ち話」

戦国商人の土木・角倉了以(3)

父子の夢、果てしなく

 「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」。森鴎外『高瀬舟』の冒頭だ。

 角倉了以が、高瀬川の開削に着手したのは、大悲閣千光寺を嵐山に建立した五八歳の時であった。

 京都の蘇生。それには商業の中心・大阪との結びつきを強める必要があった。そのために鴨川の流れを淀川に合流させ、モノの流れを円滑にせねばならない。

 そこで、了以とその子・素庵は、京都二条木屋町を起点に、鴨川を取水して、伏見まで約一〇キロの運河を三年がかりで築いた。

 その高瀬川を舟底が平たく、舷(ふなべり)の高い高瀬舟が往く。よって、川幅は舟が通れば水位が上がることを想定して狭くした。大堰川の時と違って、市街地や農地を流れるため、土地の収用と賠償にも責任をとった。災害時の備えも考慮しなくてはならない。洪水の時、溢れた水を鴨川に流したり、水域を調整するための悪水抜溝を無数に設けた。了以の土木技術は進化していたのだ。

『瑞泉寺縁起』に見る僧衣で工事を指揮する了以の姿は、その昔、衆人を導いて土木工事を行った僧・行基を彷彿とさせる。

 工費七万五千両。高瀬舟による舟運は明治時代まで続いた。自前で道頓堀を開削した大阪の安井道頓といい、ケタが外れていた。

 さらに了以は、琵琶湖疏水工事や、日本海と大阪湾をつなぐ構想を抱いていたが、病に臥せる。

 父、危篤。富士川改修を終えて駆けつけた素庵だったが、間に合わなかった。

 了以の死後、素庵は高瀬川開削を完成させ、素庵が亡くなった三年後、鎖国令が出され、朱印船貿易も幕を閉じたのである。

(掲載号:11月02日号)