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大成建設140周年記念対談

大倉喜八郎にみる類い稀なベンチャー精神

2013年1月23日:新宿センタービル 52F プレゼンテーションルーム

我が国においてはじめて、会社組織による土木建築業を興した大倉喜八郎。その足跡と功績について、日本近代経済史の研究家村上勝彦氏(東京経済大学教授)と大倉喜八郎の曾孫にあたる大倉喜彦氏(中央建物株式会社社長)のお二人に大いに語っていただきました。

村上勝彦先生(東京経済大学教授)1942年生まれ。東京大学大学院修了。東京経済大学の前学長・前理事長。近代日本経済史が専門。特に日本産業革命期における貿易・資本輸出入に関する研究などを行う。現在、東京経済大学経済学部教授。大倉喜彦氏(中央建物株式会社社長)1939年生まれ。中央建物株式会社社長、株式会社ホテルオークラ会長、大倉集古館館長、関西大倉学園理事。そのほか、特種東海製紙株式会社、株式会社ニッピ、株式会社リーガルコーポレーションの社外役員を兼任。当社創業者・大倉喜八郎の曾孫にあたる。

写真提供:東京経済大学、公益財団法人 大倉文化財団 大倉集古館

前例なき事業に挑む、フロンティア・スピリット

家では神様みたいな、絶対視された存在


大倉喜八郎とその家族

本日はいくつかお話をお聞きしようと思っています。喜八郎さんは昭和3年に亡くなり、喜彦さんは昭和14年生まれなので、直接はお会いになっていません。ですが喜八郎さんについて色々とお聞きになっていることがおありでしょうから、人となり、もう一つは事業方面、またご趣味、さらにご家庭での喜八郎さんについてお聞きかせ下さい。喜七郎さんについてもお願いします。

承知しました。

人となりはいかがですか?

家ではとにかく神様みたいな、絶対視された存在でした。祖父の喜七郎とか親父(喜六郎)なんかは、煙ったく思っていたんじゃないかと思います。とにかく仕事でもなんでも、気に入らない奴は「馬鹿野郎!」という風だったと聞いています。けれど女の人には優しかったと聞いており、とくに私の祖母や叔母も含めて女の人には非常に人気がある感じでした。

喜七郎さんには厳しかった?

厳しかったです。うちの親父に、「お前の親父〜私の祖父のことですが〜はこの仕事に向かないんじゃないか」と言っていたということですから。

喜七郎さんの人となりはどうですか?

祖父は私が大学を出た次の年に亡くなっていますが、わが家では、一家団欒的にみんな一緒に食事をすることはありませんでした。子どもは子ども、大人は大人として、もちろん時間も違いますし、向こうは刺身とか高級なものを食べているんでしょうが、こっちは肉とか油っこいものとかを食べています。そういう意味で一緒に食事をしたりすることはなかったですね。祖父と祖母は一緒に食事をしていました。祖父が家にいればですがね。でもなかなか家にいなかったと思います。

事業方面についてはどうですか?

曾祖父のことですか?

ええ。

儲け優先ではなく、事業化のプロセスを楽しんでいた


30歳の喜八郎

色々なことをやっていましたので、あの会社もこの会社もということは、よく聞いていました。曾祖父の場合は、広い意味での請負業ですね、最初の成功というのは。土木建築というのも請負ですし、物資の調達、輸送、納入という商社的な活動も請負に入りますので、その2つでうまくいったというのがあります。普通ですと、そういう成功例を持っていれば、それを拡充するとか、深めていくことによって、さらに事業基盤を確固たるものにする、あるいはその関連分野にも進出して全体的なシナジーというか、関係のある分野で大きくなっていくのが一般的なんだろうと思います。そのほうが堅実にお金も儲かると思うんですけれど、そうじゃなくて人があまり手をつけない、たとえば非常に難しい事業とかを自分の工夫で事業にしていく、そういうプロセスを楽しんでいることがかなりあったと思います。ほかの方に比べるとですね。それがベンチャーとかになるんだと思います。先生の講演にあった「味噌汁と鉄はあたらない」(味噌汁を食べて中毒になる者はなく、製鉄業で儲かる者はいない)というように、かなり長い目で見ないと利が出ないフィールドでもやっていますのでね。どちらかというと事業するそのプロセス自体が非常に好きなんじゃないかと思います。

喜八郎さんは、私が講演で話した連続的なベンチャラーというか、一箇所で成功してもそれだけでは終わらないのですね。大倉喜彦さんの談話を何かの本で読んだことがあります。それには、「曾祖父は多くの事業を行いましたが、動機は儲けになるかならないかが重要にしても、新しさ、新規性が多くの判断要素だったようです。一般に曾祖父はあくの強い儲け一辺倒という印象が強いようですが、事業家としては、儲け優先というよりも事業化のプロセスを楽しんでいたのではないでしょうか」とあります。

そう思いますね。

事業が無類に好きということですね。

まあそうなんですね。

資産の75%が満州と中国に向けられていた


大倉喜八郎と中国の軍閥政治家、張作霖

新しいことをやるオンリーワンといいますか。

そうですね。それもありますが、明治維新があり、そのあと日清、日露戦争もあって、日本の統治システムが確立していきますと、ゴールドマネーというべき三井さんや住友さん、鴻池さんとか、あるいは維新の勝ち組である土佐藩をバックとした三菱さんとか、そのような資本家が中央政府と密着しており、曽祖父はなかなか中央では仕事がしにくかったという部分があると思うんですね。だから当時のフロンティアの北海道とか、あるいは日露戦争である程度日本が権益を獲得して行った満州とかに進出せざるを得なかったこともあったんじゃないか、と思っております。

大倉喜彦さんは、こういうこともおっしゃっています。「自分の作り上げたグループの育成にどれぐらい出資していたかはわかりません。本来なら強固な組織を作り上げ、自前の金融機関をつくって末永くグループ各社の結束と繁栄をはかるところでしょうが、そういう意識はあまり強くなかったように思われます」と。

そうですね。

それは、大倉財閥は喜八郎さんが亡くなったあと、生彩を欠いたり、戦後の企業グループとして立ちいかなかったことに繋がりますね?

そうですね。祖父がよく言っていましたが、満州への投資が非常に大きく、グループ資産の75%が満州と中国に向けられていた、ですから戦後回復するわけにいかなかったと。

喜八郎さんが亡くなった昭和3年、1928年ごろには、だいたい半分、あるいは半分弱が中国とか満州にいっており、そのあと戦争中にどんどん本渓湖の製鉄所(煤鉄有限公司)を拡大して金をつぎこんでいったのですね。

だから当時持っていた帝劇とか、東京会館とか、他の企業の株も持っていたと思うんですけど、そういうのを処分して満州にお金をつぎ込んでいますね。とくに鞍山製鉄所との統合という話もあり、それに対して資本的に対抗せざるを得ない事情もあったりしました。本渓湖の鉄は燐分が少ないいい鉄です。これは主に海軍で使っていました。ところが満鉄あるいは鞍山製鉄所はどちらかというと陸軍の色彩が強く、そのため海軍は「統合するな」という意見だったらしいです。私は詳しくは知りませんが、そうはいっても海軍がお金を出してくれるわけではありませんしね。そういうことがかなりあって、満州への傾斜がきつくなったんでしょう。

大倉喜八郎は、野生的で型破りな経済人


満州・本渓湖の製鉄所

喜八郎さんが亡くなったとき50%ぐらいだったのが、敗戦近くになると75%になっていたわけですね。本渓湖は何しろ鉄も石炭も燐分が少なく、いい鉄ができる。ですから海軍の軍艦だとかの材料になっていた。

戦艦大和の砲塔とかに。

ある意味で海軍の宝庫である、ところが満州全体は陸軍、関東軍の支配下にあるので、海軍と組んだ大倉は孤立している。鮎川義介さん(日産コンツェルン創始者)の日産が出てきて統合しようとしたからで、そういうことが記録に残っています。大倉側は抵抗したり悩んだりいろいろしていますね。話は戻りますが、私は「大倉財閥」というより「喜八郎財閥」だったんじゃないかと思っています。

私もそう思います。戦争中、たとえば東京電力の前身にあたる東京電燈は国営化されて関東配電という会社になりますが、その東京電灯の株式なんかもその頃に手放したりしてるんじゃないかという気がします。よくわかりませんが。


戦前出た経済学の本には、東京電灯、関西電力の基盤となる宇治川電気、大日本ビール、これら大企業は大倉系になるべきものだけれど、資金が足りなくて手放していったとあります。

それが結局、満州への投資に回ったということだと思います。

何かほかに事業関係のことはありますか。

私は子どもでしたから、事業の話は誰もしませんでした。

先ほどの話で、三井、三菱と違うという点では、城山三郎さんが書かれた「野性のひとびと」という文庫本になっている本で、大倉喜八郎と、安田善次郎(安田財閥創始者)と、浅野総一郎(明治のセメント王)の3人が最も野性の人だと言っています。ほかの人は長州藩とつながっていたり、色々とバックアップを受けていたので。

安田さんとは非常に仲が良かったらしくて、大磯で安田さんが暗殺されたときはしばらく元気がなくてがっかりしていたみたいです。

安田さんの暗殺を考えて、京都の別荘には地下からの逃げ道を作っておいたとの話を聞いているんですけど、どうですか?

いやあ、なかったと思いますよ。小田原の別荘には鉄の扉をつけたということは聞いていますけど。安田さんは大磯なので近かったですからね。亡くなったところが。

多彩な趣味人としての横顔

欧米で巻き起こった東洋美術ブーム


大倉集古館

ところでご趣味に関してですが、喜八郎さんのご趣味はたくさんありますが、どうですか?

何たって狂歌が一番の趣味ですよね。先ほどの映像で、「努力」とかの字が書いてあった光悦流の書ですね。書はずいぶん年取ってから始めており、うちの祖母の話ですと、新聞を四つ切りにして、それを置いてそこで書の手習いをしたそうです。このように倹約家で、あまり贅沢は叱らなかったそうですが、無駄は叱るのだそうです。祖母は新婚のとき、新聞を取るときに同じ新聞を取ったら怒られたと言っていました。でも気前はよくて、「お前にもうちの嫁になったから、お小遣いをあげましょう」と言って300円くれたそうです。すごいんですよ、この金額は。大臣の給料と同じだというんで非常に驚いていました。いい時代だったと(笑)。このように女の人には優しかったんだと思います。あと趣味は美術品ですか。美術品というのは先生がご存じのように、明治のあの時代は、日本が富国強兵という感じの路線を進むので、西欧の進んだ文物を購入する資金はプアなんですよね。だからどんなものでも輸出に努めねばならなかった。明治の御維新で神仏混淆がダメになり、とくに廃仏毀釈という運動が盛んになりますね。ですからお寺さんが困窮しちゃったんですが、ちょうどその時期は、19世紀の終わりから20世紀の頭で、欧米はアジアブームだったんですよね。

浮世絵とかね。

浮世絵も含めてね。たとえばオペラなんかでも、フィギュアスケートの荒川静香さんがやった「トゥーランドット」なんかは中国が舞台で、そういうエキゾティックなものが流行った。それで美術品が輸出商品という意味ではかなりウェイトがあったんだと思う。当然、私の曾祖父にしたって扱っていた、そういう目的もあってずいぶん収集したと思うんですね。

荒廃した上野・寛永寺を再建せよ


喜八郎と渋沢栄一

いま大倉集古館の前の庭のところに青銅の灯篭があります。あれは寛永寺から頂戴したものですが、寛永寺はご承知のように徳川家の菩提寺で、檀家は徳川一家だけなんです。徳川が維新でいなくなったらお寺の経済的基盤がなくなっちゃったわけですよ。成り立たなくなっちゃったので渋沢栄一さんとうちの曾祖父に頼んで面倒を見てくれということで、そのお礼にもらったものです。そのことからわかるようにお寺さんが苦しい時代です。だから美術品が輸出品となっていたこともあって、曽祖父が収集したという部分もあると思うんですね。ただ幸いにして自分の別の商売がうまくいったから、それを売却して現金化する必要に迫られないで、そのまま持っていて収蔵して美術館になっちゃった、というところがあるかと想像しているんです。

寛永寺は徳川の関係で廃れて、どんどん狭くなっていきましたが、その時に渋沢さんと喜八郎さんが再建準備委員みたいなのをされています。寛永寺は彰義隊の本営でしたので、渋沢さんの場合は、息子(養子)が彰義隊で死んでいますし、甥っ子(渋沢喜作)も彰義隊の最初の隊長ですからね。渋沢さんも日本にいたら、当然、彰義隊に加わっていたと思われます。彼がやるのはわかるんですけど、喜八郎さんがどうしてそこまでやったのかな、と思いますね。

頼まれちゃったからじゃないですか?

そうかもしれませんね。

関東大震災でコレクションの多くが焼失


向島の別邸

向島別邸は、昭和34年、千葉県船橋市へ移築され「三井ガーデンホテル船橋ららぽーと」の付属施設として使用されてきたが、ホテルの営業終了とともに大倉文化財団への委譲が決まり、現在、移築のための解体工事が大成建設の手によって行われている

当時、ボストンとかの美術館に日本の仏教美術品が出てますよ。曼荼羅だとか、ああいうのが全部お寺から行っちゃったというのがひとつ。それと大名がいなくなっちゃった、江戸の屋敷にあった襖絵とかは自然にいらなくなってしまったわけですよ。建築物ですから。そういうものがずいぶん海外に出て行ったんだと思います。あの時代には。

喜八郎さんの伝記「大倉喜八郎の豪快なる生涯」を書かれた作家の砂川幸雄さんが触れてますね。

この間亡くなられた砂川さんですか。

残念ながら今から2週間ぐらい前に亡くなられたんですけど、砂川さんの本の最後に、向島別邸にあって、戦後、船橋のララポートに行った尾形光琳の絵について、それを引き取ったらララポートが知らなかったと書かれていますね。

「国華」(こっか)という古い美術雑誌があるんですけれど、その編集主幹をされていた山根先生は尾形光琳研究の第一人者で、その方が「光琳じゃないか!」とおっしゃったんです。先生が光琳の第一人者だから、先生が生きている間はだれも反対できなくてそのままになっていたんですが、数年前に亡くなられましてね、そのあと、果たしてどうかな?ということになりました。

ほかに美術品関係ではどうですか?

そうですね。大倉集古館はもともと最初からコレクションとしては、堆朱(ついしゅ)が重要です。堆朱はご存じの方もいらっしゃると思いますが、漆です。漆を塗って塗って、乾いたら塗ってとやっていき、厚さ1センチとか2センチぐらいの厚さにして、それを器にしたりしたものです。鎌倉彫りみたいなものが全部無垢の漆だと思ったらだいたい間違いありません。ただ関東大震災で全部焼けてしまいましてね。火が回りやすく、火力も強かったので。興福寺から出ていた乾漆の十大弟子立像。これは運慶・快慶の時代なんですけど、これも一体あったが焼けちゃったんですね。それで普賢菩薩だけは引っ担いで外に出した。

それが、いま国宝で残っていますね。

小さいものは運べたんですけど、大きなものはダメでした。焼けたものの中には、桂昌院、つまり綱吉、五代将軍のお母さんの御霊舎(みたまや)、普通の家庭でいえば仏壇というものでしょうけど、大きくて部屋ひとつみたいなものも焼けちゃいましたね。あの時代の漆のものは、結構ゴテゴテはしているんですけれど、しかし手の込んだものなんです。

美術館ごと海外に売却する計画があった


喜八郎が揮毫した自作の狂歌
「楽あれは 苦あるうき世に すみ田川
華もさきけり 雨もふりけり」

大倉集古館は大正の中頃にできますが、その前身は明治30年代にできた大倉美術館でした。日露戦争時のエピソードですが、日露戦争に勝つために資金不足の政府に寄付するというので、大倉美術館のものを全部海外に売る、その仲介を海外の記者に頼んだという話がありますね。

売れたんですか?

結局売らなかった、あるいは売れなかった。売れていたら、大倉集古館は今ないということになります。そのときに話を聞いたアメリカの新聞記者(ニューヨーク・ヘラルド)が、のちにアメリカの陸軍長官タフトが来日したときにその話をして、タフトが大倉美術館に来たという話がありました。

そうですか。全然知らなかった(笑)。

あと趣味と言えば、先ほどお話しに出た光悦流の書ですか。60歳ぐらいから始められたということですが、その前の喜八郎さんの書はどうなのですか? あまり見たことがないのですが、見たことがおありですか?

ありません。書いていたとは思うんですけど。

いろいろな署名とか必要ですからね。


先ほどのお話にあった、自ら編纂した「心学先哲叢集」の名前のところは自分の字ですね。楷書で書いた。しかし光悦流になってからの字しか見たことがないですね。

60歳頃に始めたなら明治30年頃でしょうか。それまで色々と書かれているわけだから。

筆でしか書かないですからね。あの時代の人は。

光悦流は江戸三蹟のひとつと言われていますけれども、あの字についてはどうですか?

読みにくいですよね。あの字は。

ちょっと芸術的な字というか飛び跳ねた字ですね。

集古館には光悦の書いたものがあるんです。いくつか。でももうちょっと読みやすい字でしたね。本物は。だから曽祖父は必ずしも字ばかり書いていたわけではないんだと思いますよ。

ご馳走をふるまい、聞いてもらった「一中節」

先ほど話のあった狂歌ですが、狂歌はずいぶん残っているんですか? 大倉家には。

うちにはあまり残っていないけど、狂歌の全集とかはありますね。曽祖父が和歌廼門鶴彦(わかのと つるひこ)の名前でいろいろ書いていますから。

あと有名なのは一中節ですね。

一中節は、私は歌えませんし、ほとんど聞いたことがありません。一中節をみなさんご存じかどうか知りませんが、河東節とか一中節とかは旦那芸の典型的なもので、ほかに長唄とか常磐津とか清元とかもあります。いずれにしても向島で宴会を開いて、感涙(かんるい)会と言って、ごちそうして聞いてもらっていたという感じのもので、うちの祖母に言わせると、“ひとこらえ”、“ふたこらえ”というものだったと、我慢して聞かなきゃならないような。

福沢諭吉が弟子を連れてその感涙会でごちそうをたらふく食べたあと、一中節を喜八郎さんが歌う前になると全員いなくなったということですが(笑)。

そうらしいですね。一中節は都一中という人がやっているんですね。この間亡くなったのかな?その家元を預かっていたんですね。どうしてだかは知りませんが、一中節に肩入れをしていたんだろうと思います。

喜八郎さんのお墓は護国寺ですけど、そこに初代都一中から十一世までのお墓があって、それは大倉家がつくったということです。現存の都一中十二世から聞きましたけれども。

私は知りませんでした。十一世の方にもお目にかかったんですが、おばあさんでしたね。

都一中十二世は、たいへん喜七郎さんにお世話になったと言ってました。一中節の復興のため、明治時代に現在のノリタケをつくった森村市佐衛門と、三井の番頭の永田甚七と、喜八郎さんの3人が運動しています。3人とも一中節でも流派が分かれているので、俺はこの流派、俺はこの流派というような感じだったということです。

何派あるのか知りませんが、確か2つか3つあるんですよね。聞いたことがほとんどありませんので、わかりませんが。歌舞伎の助六かなんかでちょっと使うんじゃないかな。歌舞伎でも確か御簾(みす)の内にいて謡うんですよ。「旦那ひとつお願いします」と言わないと歌ってくれないとか。もっともお金を出してやってもらっているということですが。

当時の雑誌や新聞に、喜八郎さんの一中節に関するエピソードが多く出ています。家族が我慢して聞いているとかの。

我慢するものだったらしいですよ。謡ってる人だけが楽しいもので、聞いてるやつは何も面白くないと言っていました。

朝風呂が好き。お昼は鰻と決まっていた


小田原別邸でくつろぐ喜八郎

実践女子大学をつくった下田歌子さんが、喜八郎追悼文の中で、大倉さんの歌は三味線に従って歌うんじゃなくて三味線を引っ張るように歌うとありました。

そうですね。ところで曽祖父は楽器は全然やらなかったみたいです。

その点では息子さんの喜七郎さんは違いますね。

こちらは大変なものですよ。三味線なんかは家でも弾いていましたし、「オークラウロ」というラッパ、尺八みたいなものもやっていました(※フルートを縦にし、尺八の歌口をつけた金管多孔尺八を大倉喜七郎が考案)。

喜七郎さんは島崎藤村のパトロンですね。隠れて資金を援助していた。また日本ペンクラブがある意味でヨーロッパと通じているため軍部からにらまれていたので、喜七郎さんは密かにペンクラブを支援していました。

あと文藝春秋社とも仲が良かったですね。

外遊中に指揮者のストコフスキーとかとも会ってるんですね。昭和11年に行かれたときは、事業活動もしてるんですが同時にかなりの数の芸術家・作家などとも会っておられた。ですから事業と音楽、芸術が半々だった感じですね。

ま、芸術好きでしから。戦後、祖父は公職追放になり、することがなくて家にいましたので、三味線を弾いたりしてたようです。碁を打っていることが多かったですね。

日本碁院の創立者ですからね。

先ほどのお話にあった、投機行為、賭け事ですが、わが家は基本的に曾祖父以来賭け事をしないというのが決まりでした。

それはどういう感じだったのですか?

賭け事を一切しない。まあ、するなということで、博打はダメだったですね。曾祖父が死んじゃったあとは、うちのレストランでは祖父もしていたようですね。

では私が話したことは当たっている、家の中でも守られていたということですね。

曾祖父は、とにかく健康的だったみたいですよ。朝風呂が好きなんです。お昼は会社ではたいてい鰻と決まっていて。夜、寝床の中でもの考えていてもいい知恵なんか浮かばないと考えていた人なので、寝たらすぐ熟睡しちゃうという。健康に気を遣っていたから長生きしたんですね。

健康法としては腹八分目、お酒もほどほど、ビールをちょっと、鰻は伝説になっていますが。

最後まで食べたかどうかは誰も知らないらしいですけれども、残っていたとかいう説もありますね。でも毎日、鰻を取っていた。

有名なエピソードとして、喜八郎さんが89歳で蒙古に80日間行ったとき、馮玉祥(ふう ぎょくしょう)という、クリスチャンゼネラルの異名を持つ、軍閥の親分、彼のところに行ったときに彼はとても質素な生活だったんですね。喜八郎さんは馮玉祥の寝室に行ってみたら絹の寝具でなくて、木綿の寝具だったということにえらく感動して、この男は中国を将来しょって立つと言っていたと。そのときに喜八郎さんのお供の人々が、食事があまり良くなかったので喜八郎さんがどんどん痩せていくという話をしていたのを馮玉祥が聞いて、北京から鰻を樽いっぱい運んで毎日食べさせた。そういうエピソードがありました。

中国の鰻はあまりおいしくないですよね。

狂歌師が後に実業家になった


喜八郎銅像

あと、趣味は狂歌ですね。

それは狂歌でしょう。数限りなく詠んでいるんじゃないでしょうか。晩年は駄作も多かったと思いますけれども。

私は、黒田猿田彦という若い狂歌師で、私よりも若い人ですがもう亡くなったんですけど、「狂歌宣言」という本を書いています。その序文に、狂歌の先達大倉喜八郎、幸田露伴、石川淳ら十名に捧ぐと書いてありました。黒田猿田彦に会って聞いたことがありますが、狂歌は素直に詠うことが重要で、大倉さんの狂歌は素直に気持ちが出ていて良い、でも素直にやることは自分をさらけ出すことになるから非常に危険なんだ、だから狂歌というのは非常に危険な歌なんだ、喜八郎さんの狂歌は理にかなっていると言ってました。

狂歌をやっていたのは若いころからですね。

14歳からですね。数えで。江戸に投稿して、江戸の雑誌に新発田の鶴吉か鶴彦として名が出ているんですね。18歳でひとりで江戸に出てくるとき、手引きしてくれたのも、案内してくれたのも狂歌の仲間ですね。

そうらしいですよ。

喜八郎さんは「心学先哲叢集」という岩田梅岩の商人道などについての訓言を編纂した本を24歳頃に作っていますが、それも狂歌仲間から色々資料を得たんじゃないかと思われます。


石田梅岩は京都の方ですよね。

そうです。京都の商人出身です。小池藤五郎という狂歌の研究者がいるんですが、その人が喜八郎さんは金持ちになって旦那芸として狂歌をやったのではなくて、本来は狂歌師なんだ、道を間違えたとは言ってませんけど、狂歌師がのちに事業家になったのだと書いています。

そのほうが正しいと思います。

人を食ったというか、飲みこむような事業における態度も、じつに狂歌的だ、狂歌の成果を事業に最大限活用したのは喜八郎さんだ、と小池先生が書いていますね。