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大成建設DNAのルーツを探る

日本の近代化に生涯を捧げた、実業家、大倉喜八郎。
数々の企業を立ち上げ、産業を育んだ、その偉大な足跡を辿ります。

監修:東京経済大学教授 村上勝彦 先生

『東台大戦争図』(国立国会図書館蔵)

命がけの事業家魂

天保8(1837)年、越後の国(現在の新潟県新発田市)に生まれた大倉喜八郎は、18歳で江戸へ出、かつお節問屋の丁稚を振り出しに、乾物商、鉄砲商、洋品店と、時流を読んだ商売を次々に手がけていきました。鉄砲商時代には、戊辰戦争の最中に命がけの冒険も体験しています。誰もが引き受けないことに敢然と挑む喜八郎は、〝稀にみる士魂の持ち主〟と評されました。

民間人として初の欧米視察

明治5(1872)年、喜八郎は、横浜から外国汽船アラスカ丸で出航し、アメリカ、イギリス、フランス他各国を14カ月かけて歴訪。民間人として初めて欧米の商工業を視察しました。ヨーロッパでは、「岩倉使節団」とも面会し、木戸孝允、大久保利通らと殖産興業の重要性について話し合っています。帰国した喜八郎は、今日の総合商社にあたる「大倉組商会」を設立し、外国貿易の先陣を切りました。

銀座通りにアーク灯を灯す

明治15(1882)年11月、当時、電力会社(東京電灯)の発起人の一人だった喜八郎は、銀座2丁目にあった大倉組商会の建物に発電機を据え付け、銀座通りに日本で初めての電灯となる、アーク灯を灯すデモンストレーションを行いました。「お天道さまの次はお月さま。その次がアーク灯」と新聞で報道され、銀座通りは多くの見物人であふれました。

マンモスゼネコンの誕生

急速に振興する日本経済に即応できる近代的な土木建築会社の設立を目指し、喜八郎は、渋沢栄一、藤田伝三郎と協力して、「有限責任日本土木会社」を創立。気鋭の技術者たちが競って日本土木会社に集まりました。皇居の造営、歌舞伎座、帝国ホテル、東海道本線、琵琶湖疏水など、次々と大工事を成功させ、明治の近代化に大きな功績を残しました。

初代・帝国ホテル

喜八郎と渋沢栄一

喜八郎は、明治時代の実業界で幅広い交流を持っていましたが、とりわけ渋沢栄一とは、終生深いつながりを持ち続けました。明治11(1878)年、二人は発起人となり、産業界が協議する場所として、東京商工会議所の前身、商法会議所を設立。その後も、大阪紡績、帝国ホテル、サッポロビールなどを共同で設立しています。

大倉集古館(写真提供・同)

日本発の私立美術館

文明開化後、多くの貴重な美術品が海外へと持ち出されていく事態を危惧した喜八郎は、自ら美術品の蒐集を始めます。50年間にわたって集めた美術品を寄付して、大正6(1917)年、大倉集古館を設立。当時、私的なコレクションを公開することはとても珍しく、大倉集古館は、わが国で最初の私立美術館となりました。

大倉商業学校
(写真提供:東京経済大学)

育英・慈善事業に尽力

喜八郎は生涯を通じて、育英・慈善事業にも寄付を続けました。東京初の私立甲種商業専門学校、大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に際し、「金庫に封じて子孫に残すも、いたずらに怠慢の助けとならん。公益に供用して商業を振るふの資となさん」と語っています。また、現在、大倉山公園として神戸市民に親しまれている場所も、喜八郎の別荘を敷地ごと寄付したものです。

札幌麦酒醸造所
(現・サッポロビール)

喜八郎が設立に関わった企業

喜八郎は持ち前の起業家精神で、近代産業の礎となる数々の事業を立ち上げ、自らも経営に参画しました。喜八郎が足跡を残した会社には、大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清オイリオグループ、あいおいニッセイ同和損害保険、特種東海製紙、リーガルコーポレーション、ニッピ、日本化学工業、東京製綱、日本無線などがあります。その一方で、株の売買や相場などには一切、手を出さず、92歳で生涯を終えるまで一貫して〝実業家〟であることを誇りとしました。