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東京経済大学教授・村上勝彦先生に聞く

創業者・大倉喜八郎の生き方に学ぶ、

時代を拓く力と心

当社の創業者にして、稀代の事業家である大倉喜八郎。その生き方から、私たちは何を学べるのでしょうか───大倉財閥研究の第一人者である村上勝彦先生にお話を伺いました。

事業を成功に導く3つの要素

大倉喜八郎が事業に邁進した時代、日本は大きく移り変わろうとしていた。封建社会の江戸から近代化をひた走る明治へ。従来の価値観や経験則は通じず、簡単に先を見通すことはできない。しかし、変化の時代は飛躍の好機でもある。混迷の時代にあって、大倉喜八郎は、そのベンチャー精神をいかにして発揮していったのだろうか。

「もともと英語の“ベンチャー”とは生命を失いかねないほどの危険を伴う冒険を指しますが、大倉喜八郎のそれは決して蛮勇ではなく、時流を読み、熟慮の上で起こした勇気ある行動でした。私は、ベンチャー精神には、冒険心、洞察力、パイオニア精神の3つの要素があると考えますが、大倉喜八郎は、この3つをフルに生かして事業を進めたのです。」

まずは冒険心。大倉喜八郎は、実際に人が尻込みするような要請にも果敢に応じ、多くの任務をやり遂げている。
例えば、明治10(1877)年、朝鮮が大飢饉に見舞われた際、内務卿大久保利通のたっての要請を引き受け、救援米を届けている。その際、荷を渡す手続きに時間がかかり、船が彼らを置いて帰国してしまった。そこで、現地でイカ釣り船を調達。玄界灘で暴風雨に遭遇しながらも、命からがら日本に戻ってくるなど、決死の覚悟で任務を果たした。

「こうした胆力ある行動で、明治政府から絶大な信用と評価を得ます。大倉喜八郎は“政商”などと揶揄されることもありますが、それは政府が頼るにたる任務完遂能力があったからこそ、といえるでしょう」。

さらに、先を見通す鋭い洞察力も兼ね備えていた。

「時代が求める事業を次々と興していったことからもよく分かりますね。彼は乾物の商いでそれなりに成功を収めていましたが、横浜で黒船を目の当たりにし、国内動乱を予感して、維新の前年に鉄砲商に転じました。それから、欧米視察を通じて、進歩的な会社組織や工業生産のあり方を知り、海外との直接貿易を手掛けるとともに、日本にはなかった毛織物産業への進出を決めています。日本の当時の経営者の中では最も早く海外進出の必要性を確信し、中国大陸にも多大な投資を行いました」。

もちろん、いかに洞察が正しくても実行が伴わなければ、事業の役には立たない。的確な情勢判断のみならず、決断力と実行力に富んでいたことこそ、大倉喜八郎の真骨頂だと村上先生は言う。

「大倉喜八郎は何より商機を重んじました。当時の財閥は鉄という分野にあまり手を出しませんでしたが、彼は旧満州でいち早く製鉄業に着手しています。社員を現地へ出張させる際も、指示した当日に『今日行かないとだめだ』と言っています。幸運の女神には前髪しかない、との言葉がありますが、チャンスを逃さない迅速な行動の大切さを知っていたのです」。

そして、前例のないことに挑む、パイオニア精神にもあふれていた。「江戸時代、日本に羊はいなかったので、毛織物製造という産業はありませんでした。ビールの醸造も同様です。大成建設の前身にあたる日本土木会社は、日本初の建設業法人ですが、精鋭の技術者をそろえた、かつてないほど合理的で近代的な組織として名を馳せました。また関東大震災後の混乱の中進めた日本初の地下鉄建設では、自ら社員を叱咤激励し、日本人だけで工事をやり遂げるよう命じています。こうしたチャレンジングな取り組みを通じて時代を牽引していったのです」。

村上勝彦(むらかみ・かつひこ)

1942年東京生まれ。東京大学大学院修了後、東京経済大学専任講師、中国の対外経済貿易大学客員教授、北京大学および復旦大学の客員研究員を経て、1989年に東京経済大学教授に就任。1996~98年に同大学経済学部長、2000~08年に同大学学長、2008~11年に学校法人東京経済大学理事長を務める。現在、同大学経済学部教授

原動力は、飽くなきベンチャー精神

大倉喜八郎は勇猛果敢に時代を生き抜いた人だった。鰹節問屋の丁稚を振り出しに、乾物屋、鉄砲商を経て、明治6(1873)年に日本人による初の貿易商社「大倉組商会」を創立。明治20(1887)年には、日本初の会社組織による建設業法人「有限責任日本土木会社」を設立する。以降も、電力事業や毛織物業、ビール醸造業や製材・製紙業、ホテル業、教育事業など多岐にわたる事業を手掛け、92歳で大往生を遂げるまで、日本の近代化に多大な功績を残した。また日本の民間人として初めて欧米の視察旅行に赴き、日本初の海外支店となるロンドン支店を設置したり、中国大陸へいち早く事業進出し、幅広い人脈を築くなど、開かれた視野の持ち主でもあった。

丁稚から身を立て、商傑と呼ばれるまで、事業に邁進した大倉喜八郎の原動力は、その飽くなきベンチャー精神だ、と村上先生は語る。

「大倉喜八郎は、その長いビジネス人生において、決して一つの処にとどまることがありませんでした。新事業を興すだけではなく、常に自分が活躍できる、面白いと思える新たなフィールドを求め続けていました。一つの事業での成功に安住せず、前へ前へと進む。まさにベンチャー精神の権化ですね。それが大倉喜八郎という人の最大の魅力にして、成功の秘訣でしょう」。

赤坂葵町大倉本邸

大胆さを支える、細心周到なる準備

同時代の人から「大冒険的商人」と評され、常にアグレッシブに道を切り拓いてきた大倉喜八郎。しかし、大倉喜八郎が、かくも大胆に行動できたのは、事前の徹底した調査と考察が伴っていたからだ、と村上先生は強調する。

「彼にとって、“大志放胆”と “細心周到”は事業を進める上の両輪でした。『戦い上手な者は、負けない状態に身を置いてから戦う』という兵法の言葉を好んでいたように、ビジネスの戦場で負けない状態、つまり準備万端整えることこそが勝利の近道だと考えていたのです。ことに土木事業における調査の大切さは口を極めて説いていますね」。

とはいえ、次々と事業を手掛ける中で、大倉喜八郎もいくつかの失敗を重ねている。そして、その原因の多くは事前の調査不足だったと冷静に分析している。

「私がすごいなと思うのは、大倉喜八郎はたとえ失敗してもくよくよしなかったことです。『失敗があった度に失望するようでは到底凱歌はあげられぬ。失敗したところで少しも心配せず、おもむろに失敗の原因を探求してこれに処するのだ』と。この前向きな姿勢、失敗を恐れない気持ちがプラスに働いているのでしょう。こうした気概は、これから経験を積もうという若い方たちにこそ、見習ってもらいたいと思います」。

自らの身命を賭して、責任を果たす

そして、もう一つ。大倉喜八郎が重んじたものに取引先の信用がある。

「大倉喜八郎は商人出身の思想家・石田梅岩の『石門心学』に傾倒していました。この学問では、本当の商売とは相手も自分も立て、双方が利益を得ることであり、商売にも正直さや信用、倹約や勤勉といった徳の実践が大切だと説いています。大倉喜八郎は『言葉の命を重んじる』と言っていますが、言葉の命とは、言ったことに責任を持つことにほかならず、信用は、責任を果たすことでもたらされるものです。前述の通り、彼はあらゆる局面で身命を賭し、この“命”を守ろうとしました」。

大倉喜八郎は日本実業史に残る偉人である。当社の発展は、大倉喜八郎が灯した、ビジネスへの情熱、信念からはじまっていることは間違いない。

「大倉喜八郎が創立した東京経済大学の建学の精神は“ベンチャー精神”と“グローバリズム”ですが、これは世界各地でビッグプロジェクトにトライしている、現在の大成建設にも相通ずる理念ではないでしょうか。社名の由来である大倉喜八郎の戒名に『超ちょうまい邁』という言葉があります。この意味は難局にあっても前へ進む勇気を持つ、ということ。こうした大倉喜八郎の精神を、ぜひ世界の舞台で発揮していただきたいと思います」。