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未来へ語り継ぐ物語

大成建設は、明治6(1873)年、創業者、大倉喜八郎が今日の総合商社にあたる、大倉組商会を設立したことに始まります。以来、当社は、安全で快適な生活環境の整備を通じて社会の発展に貢献したいという信念のもと、建築事業に邁進してきました。
140年の時の流れの中で、夢と情熱に育まれた数々の物語をご紹介します。

錦絵で見る大成建設の仕事


明治時代、東京の名所や世相を反映した錦絵が盛んに描かれた。
写真提供:国立国会図書館

明治5(1872)年、横浜と新橋を結ぶ日本初の鉄道が産声を上げました。始発駅となった新橋には、アメリカ人ブリッジェンスの設計によって、平屋の正面玄関の左右に木骨石張り2階建ての「新橋停車場」が建設され、その一部を当社の創業者、大倉喜八郎が請け負いました。蒸気機関車と西洋建築はたちまち話題を集め、社交場のように賑わった新橋停車場は、ちょっと気取った言い方で「新橋ステンション」などと呼ばれました。他にも、鹿鳴館、銀座煉瓦街など、当社の前身である大倉組商会が工事を請け負った仕事の多くが、東京の新名所として錦絵に描かれました。

日本初の法人建設企業


皇居造営の事業を請け負い完成させた。

明治20(1887)年、急速に振興する日本経済に即応できる近代的な土木建築会社の設立を目ざし、大倉喜八郎は、渋沢栄一ら明治財界の巨頭と協力して日本初の法人建設企業となる、有限責任日本土木会社を立ち上げました。新会社の資本金は200万円。当時の明治政府の財政支出総額7945万円と比較して、いかに大きな資本力だったかがわかります。大倉は合理的な経営を実践したため、気鋭の技術者たちが競って集まり、全国的な技術者不足まで起きたといわれています。新家孝正、鳥居菊助、田中豊輔、中浜西次郎ら、東京帝国大学で建築家ジョサイア・コンドルの弟子だった卒業生も多く集まりました。

シカゴに、平等院鳳凰堂をつくる


日本土木会社の印半纏を着た職人たちの姿が見える。
写真提供:センゲージラーニング(株)・国立国会図書館

慶応3(1867)年のパリ万博の初参加以来、日本はたびたび万国博覧会に出品し、日本ブームを巻き起こしてきました。明治26(1893)年、コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念してシカゴで開かれた万国博覧会において、平等院鳳風堂と同型の建物を建設し、日本文化の高さをアピールする計画が立ち上がりました。設計を建築家、久留正道が担い、施工を当社の前身である日本土木が請け負いました。皇居造営にも参加した社員、織田仙吉は、大工棟梁ら総勢25名の職人を連れて横浜を出帆しシカゴに到着。柱の木彫りや絵模様までを正確に写した日本館は、大いに注目を集めました。

外国人の知恵を借りずに、つくりなさい


地面を掘り下げてトンネルをつくり、完成後に埋め戻す開削工法が採用された。

昭和2(1927)年、現在の銀座線、上野〜浅草問2.2キロに日本初の地下鉄が開通。エ事を請け負ったのが当社の前身である大倉土木でした。第一次大戦後の不況や関東大震災などで資金調達が難航。しかも技術的にも多くの困難が予想されるなか、大倉喜八郎は、「外国人の智恵を借りずに、日本人だけでやりなさい。」と社員を激励。工事費も手形払いで請け負い、全力をあげてエ事に取り組み、無事完成させました。『東京地下鉄道史』(昭和9・1934年発行)には「東京地下鉄道の今日あるは、大倉土木に負うところが少なくない」と記されています。

半纏に見る、シンボルマークの変遷

大倉土木組時代の印半纏

印半纏(しるしばんてん)は、背中に屋号や家紋を染め抜いた半纏(はんてん)のことで、江戸時代の職人たちは誇りを持ってこれを身にまとい仕事をしていました。当社には、明治時代半ばの大倉土木組時代の印半纏が伝わっています。

◀ 明治26(1893)年に設立された当社の前身である大倉土木組の印半纏。背中の井桁紋は、大倉喜八郎の生国である越後・新発田藩主溝口家の紋。青年時代の功績から授けられていたものを使用しました。腰回りは土木の「つなぎ文字」です。

明治26(1893)年に設立された当社の前身である大倉土木組の印半纏

◀ 大正6(1917)年、喜八郎は、株式会社大倉土木組の紋章を五階菱に改めました。大倉家の旧藩公・溝口家との縁組みが決まり、溝口家の正紋である五階菱が贈られたのを社章に使用したものです。腰回りは井桁の「つなぎ文字」。

紋章を五階菱に改めた半纏

◀ 大成建設への社名改称に際して、昭和24(1949)年に考案されたシンボルマークをいれたものです。図案は、設計部社員による公募によって決められました。腰回りは「大」の「つなぎ文字」です。

業界初の株式公開

東京証券取引所
写真提供:東京証券取引所

戦後の経済復興に伴って受注高が急伸する中で、工事の大規模化や機械化に伴う資金調達が大きな課題となっていました。こうした経営環境の変化の中で、昭和31(1956)年、当社は、建設業界のトップを切って株式公開に踏み切りました。公開に先立って、当時の担当常務であった水嶋篤次は、次のような内容の文章を社員に送っています。「株式が公開されれば、会社の盛衰、一進一退ことごとくが株価に反映する。ここで一層の戒心自重の上努力し、会社を良くするように心掛けないと恥を天下にさらすことになる。こうした点にも株式公開は深い意義がある」。当社による株式公開の成功は、経営基盤の強化や経営の近代化を推し進めていたゼネコン各社に、大きなインパクトを持って迎えられました。

安全坊や誕生秘話

エポック坊や

「工事中はご迷惑をおかけします」と挨拶をするヘルメット姿のイラスト。現場のイメージアップにつながることから、現場の仮囲いに度々描かれてきました。そのルーツについて、当社元常務の自伝に、「昭和36(1961)年7月、大藏省印刷局の作業所で社長による安全巡視が行われた際、「安全週間にちなむ安全漫画募集」の際に作成された看板イラストを貸し出したことが評判になるきっかけとなった」と記されており、安全坊やが当社生まれであったことがわかります。その後、他社も同じようなイラスト看板をつくるようになりましたが、当社が権利を主張することもありませんでした。安全坊やは、平成2(1990)年、当社VIデザイン導入時に、ゲートル姿から若々しい姿に世代交代しています。

大倉着七郎とホテルオークラ

ホテルオークラ本館メインロビー
ホテルオークラ本館メインロビー(竣工時)

大倉喜八郎の長男で、事業を引き継いだ喜七郎は、「首都に一流のホテルがあることが、その国の文化の尺度を測る物差しである」と常々語っていました。戦後は、財閥解体や公職追放によってすべての職を辞しホテル経営からも身を引きましたが、復帰後、自ら最後の仕事として取り組んだのがホテルオークラの設立です。大倉喜七郎会長と野田岩次郎社長が掲げた「日本の伝統と近代的なホテルの調和」という理念の下、建築家の谷口吉郎を委員長とする設計委員会を設け、日本の伝統的な美しさを生かした空間を作り上げていきました。また、当時、当社設計部にいた清水一が委員のメンバーとして和風客室を担当しています。昭和37(1962)年、喜七郎の夢を託したホテルオークラ本館が遂に開業しました。

日本復興の証しとなった国家事業

国立競技場

昭和39(1964)年の東京オリンピック招致を目指して、前哨戦である第3回アジア競技大会を成功させ、日本の国力を証明する舞台として計画されたのが国立競技場です。そして、14カ月の短工期で5万人収容の大スタジアムを建設するプロジェクトを担ったのが当社でした。日本中から寄せられる期待は大きく、現場には、皇族としては初めて皇太子殿下〔現・天皇陛下〕が足を運ばれ、工事の様子を視察されました。当社は、引き続き、座席数拡張(7万5千席)などの大改修工事も手がけました。東京オリンピックの成功を契機に自信を取り戻した日本は、急速な発展を遂げていきました。

不可能を可能にした工事


工事のクライマックスとなったドームの設置の様子

富士山頂レーダー基地は、巨大台風によって多くの人命が失われたことを教訓に建設された気象観測施設です。工事は過酷を極め、永久凍土や突然の激しい風雪、高山病に悩まされながら、延べ9,000人の命懸けの努力によって、昭和39(1964)年に完成しました。当時、気象庁でこの工事のリーダーだった新田次郎は後に、小説『富士山頂』に工事の苦難の様子を描いています。昭和45(1970)年には、石原裕次郎主演で映画化され大きな話題を呼びました。レーダー基地は、35年にわたり台風観測の砦として活躍してきましたが、時代の流れとともに気象衛星にあとを譲り、平成11(1999)年にその役割を終えました。

柔構造、超高層ビルの草分け

ユニットバスやアルミ製カーテンウォールなどの新技術も採用された。

東京オリンピック開催直前の昭和39(1964)年8月、わが国初の1,000室級の国際ホテル、ホテルニューオータニが誕生しました。建物は17階建て・高さ72m。しかし、従来の剛構造建築では建てられる高さに限界があったため、新たに採用されたのが柔構造理論です。これは鉄骨の柱や梁で地震の揺れをしなやかに受け止めて建物の破壊を最小限にする理論。折しも100尺(10階)以下と定められていた法律も改正の運びとなり、工事は、当社の設計・施工で進められ、最新の理論と工法を駆使して日本で初めて100尺を超える建物が完成しました。ここで得られた建築技術は、新宿副都心の超高層ビル群にも次々と採用され、幅広く普及していきました。

建築・土木分野で初の恩賜発明賞

大成トラス構造。長崎国際体育館(1961年)の八角形の屋根に採用された大成トラス構造。

第2次大戦後の経済復興が進むと、工場や倉庫などのスパンの大きな施設の整備が求められるようになりました。1950年代後半、当社は軽量で剛性が高い優れた力学的特性を持つ独自の立体トラス構造である「大成トラス」を開発。均一なユニットによるプレハブ化が可能で、自由な曲面がつくれる「大成トラス」は、立体トラスの先駆けとして、工場や発電所、体育館、ドームなど柱のない大型施設に幅広く用いられ、大空間といえば「大成トラス」という時代が長く続きました。昭和42(1967)年、「大成トラス」は、建築・土木分野では初めて、その年の最も優れた発明に贈られる、恩賜発明賞受賞の栄誉に輝きました。

台湾の切手になった大成建設の仕事

台湾の切手
切手は、台湾第二高速道路開通を記念して、台湾・交通部郵政総局により発行された。

首都台北と台湾第二の都市、高雄を結ぶ台湾第二高速道路は、台湾経済建設事業中期計画として策定された国家的インフラ整備事業。なかでも、総延長2,617メートル、高さ183.5メートルのコンクリート製主塔を持つ世界最大級の斜張橋、高屏渓(カオピンシー)河川橋は、第二高速道路のシンボルとして、建設の進捗状況が逐次テレビ放映されるなど、台湾の人々の注目の的となりました。3年半の工期中、平成11(1999)年9月に発生した台湾中部大地震をはじめ、台風、洪水など、自然の脅威にさらされながら、当初の工期通り平成11(1999)年12月に完成しました。

ビル10階分のトンネルをつくる

ビル10階分のトンネル
LPガスを地下水力によって常温(約20℃)の液体として貯蔵する

我が国は、LPガス(液化石油ガス)供給量の約75%を輸入に頼っており(2008年調べ)、年間輸入量の約30日分に相当する150万tを国家備蓄として、約50日分に相当する250万tを民間備蓄として確保することをエネルギー基本計画で定められています。その一翼を担うのがLPガス国家備蓄波方基地です。地下深くに巨大なトンネルを構築し、地下水圧によってLPガスを常温(約20℃)のまま液体として岩盤内に封じ込める、国内で初めての水封式地下岩盤貯槽方式が採用されています。貯蔵量は最大45万トン。トンネルは高さ30m、最大幅26m、延長458m。10階建てのビルに相当する高さとなり、この方式としては世界最大級の施設です。

ヨーロッパとアジアを海底トンネルで結ぶ


トルコ国民150年の夢がいよいよ実現する

トルコ最大の都市、イスタンブールをヨーロッパ側とアジア側に二分するボスポラス海峡。現在、海峡下に地下鉄道トンネルを建設する国家的プロジェクトが当社JVにより進行中です。急潮流の下、世界最深(60m)での沈埋トンネルの設置や、 両岸からのシールドトンネルとの海中接合など、世界初の試みとなる難工事を成功させ、2011年2月に貫通式が行われました。海峡横断トンネル構想は、オスマントルコ時代の1860年に設計図が描かれるなど、トルコ国民にとって夢のプロジェクト。現在、トンネル内の軌道敷設、駅舎建築など、2013年10月の完成に向けて、急ピッチで工事が進められています。